町並み

岩見沢市街
 岩見沢商店街の変遷は、明治一七年の設村当時は幾春別川畔に数戸の商家があり、鉄道工事による労務者の来住とともに畑一番地に小市街が形成され、明治二〇年代は元町に商業中心があった。その後、一条通りへと市街地が伸びて、明治三〇年から四五年ぐらいまでは一条通りが核心地に、続いて大正の初期から昭和二〇年代までは駅前通りが、さらに昭和四〇年代は四条通りに中心があった。


1 夕張通りT
 明治二一五月、道庁技師の坂千太郎が幌向から入って夕張炭山を発見した。翌二二年経路を明確にするため人夫、駄馬を整えて岩見沢から上志文・雨煙別・杵白・桜山を経て継立に出て、さらに二岐経由で夕張に至った。これが夕張道路として開さくされる。岩見沢市内では幌内線鉄道駅から神社の方へ通ずる道で、現在の中央通りである。写真は明治三九年六月の撮影で、お祭りのようである。右の建物は三谷商店、左側の家並みは、手前から○印の柿本商店の土蔵、○印の山口商店の土蔵が見える。夕張通りの家並みを、一条通りから神社側を望んだところ。


2 夕張通りU
 明治三九年六月撮影。
二条通りあたりから一条通り側を望んだところで、右側の家並みは、手前から北風呉服店、山口商店、柿本商店と続いている。


3 夕張通り V
 明治三九年六月撮影。神社側を望んだところで、右側家並みの手前は岩見沢警察署である。


4 夕張通り Y
 明治四周年の写真で、No.1と同じく一条通り側から神社側を望んでいる。右端には三谷商店、左側には山口商店が見えている。家屋の屋根に瓦が使用され、道路の側溝、排水路、電灯の普及など市街地の体裁を整えている。


5 夕張通り X
 明治末期の写真と思われる。No.4とほぼ同位置からの撮影である。道路の側溝には蓋がしてあり、店の横に牛乳と書いた箱を積んだ荷車があり、生乳が普及していることが伺える。自転車も普及しつつあるようすが見られる。


6 岩見沢停車場前通り
 幌内鉄道開通当初の駅舎は夕張通り(現在の中央通り)の現東踏切付近にあったが、明治二四年には歌志内まで、翌二五年には室蘭線と夕張線が開通して、客貨の輸送量も多く、交通も繁くなり、構内拡張の必要から二五年二月に現在地に移転した。これを契機に駅前に新市街が次第に形成されていった。これは駅から農学校側を望む大正四年の写真で、右側家並みの手前は田村旅館、左側家並みは手前から荒木・沢田・渡辺待合所と続き、栢工業子店二階屋が見える。


7 停車場通り T
 現在の一条通りで、夕張通りと停車場前通りとを結ぶ繁華街として発展していった。大正四年の写真である


8 停車場通り U
 一条通り西六丁目付近から中央通りの方を望んだもので、大正初期の風景である。左側家並みの手前は田村商店、次の白壁の建物は栢工菓子店、鈴木小間物店と続く。


9 停車場通り V
一条通り西四丁目付近から中央通りの方向を望んだもので、左側電柱のかげにある時計の看板が太田時計店、その向かいの看板のある店が澤枝薬店である。大正初期の風景。


10 一条通り
 昭和初期の一条商店街で、この地域は明治二九年五月と大正一四年六月の二度の大火によって焼失している。大正一四年の大火によって店舗の装を一新している。道路にタクシーが見られるようになるのも昭和の初期からである


11 停車場通り
 停車場通りを西に望む家並みのはずれで、一条西七丁目の角の渡辺そば屋の看板が見える。大正初期の風景。


12 農学校通り
 岩見沢停車場から空知農業学校へ至る道路が農
学校通りである。大正初期には駅前から札幌通り(四条)までが家並みの続く通りで、写真は家並みのはずれに近いところである。


13 夕張通り
 大正初期の中央橋付近で、夕張通りの市街地側を見たものである。橋の下を流れるのは利根別川、左の小屋は夜警番詰所である。


14 夕張通り
 家並みの切れた夕張通りを神社側から望んだもの。七条をはずれると田園的風景が展開していた。大正初期の風景である。


15 二条通り
 大正初期の写真である。停車場通りと並行して、夕張通りと停車場前通りの間を結んで家並みの建ちはじめた新興商店街である。


16 岩見沢町俯瞰
 昭和五年頃の岩見沢町で、写真下の手前は鉄道、上の奥に利根別丘陵が続いている。方形の街路形態が明瞭で、夕張道路と駅前通りに狭まれた範囲が集落形成の核心地をなしているようすが判る。

inserted by FC2 system