近・現代の岩見沢市を理解するために
岩見沢の明拍・大正期の歴史

富水慶一

一、岩見沢の地名について
 明治三八年一月建立され、現在市の文化財に指定されている石碑「巌見澤紀」が岩見沢神社の境内にある。碑文の内容は地名の由来からはじまって、開拓創業期の苦心が述べられている。地名の由来を読み下し文にして示すと「岩見澤は浴澤の転称なり。開拓使幌内炭山を開きしとき、一〇数里の間、弄蒼として深林は人煙を四絶したり。明治一一年道路を創めて造る。執役の丁卒度合を結び潤流に就きて浴す。因て浴澤と称す」とある。
すなわち、開拓使が幌内炭山に至る道路開さくに当って、畑一番地付近(現在の元町踏切付近)で丁卒が渓流に浴して労苦を癒したことに由来して浴沢(ゆあみざわ)の称が生じた。「ゆあみ」の音韻が転訛し、「いわみ(岩身)」と発音されたところから「岩見澤」と唱えるようになったというのである。
 『岩見沢郷士誌稿本』に「明治一七年七月札幌県当局が士族移民の来住に魁けて勧業課派出所及び戸長役場を設置するに際し岩見澤≠フ名称を冠与せるが、この岩見澤の名称は其時初めて創造されたるものには非ず。当時既に言い伝え居りたるものを官辺は更に其の儘襲用せられたるものと見るべく」と、開村以前から口碑として「いわみざわ」の地名は存在していたようにみている。
沐浴説とは別にアイヌ語地名説として、イワミはかけす、ザワは多いの意でカケスの多く棲んでいるところの意であるとしている。これには無理があるが、事実開拓当初はカケスが多くて驚いたとの古老談がある。
その他にも、幌内道路開さくの請負人高見沢権之丞と開拓使に地方土方の周旋をしていた岩見三治兵衛の名をとり、幌内炭山道開設を記念して最初の休泊所に岩見沢と名づけたのではとの説や、島根県の石見国の由来説など諸説がある。

ニ、幌内鉄道の開通
岩見沢の地に最初に人跡を印したことの確実な記録はないが、明治六年石狩の駅逓業者木村音太郎が小樽本願寺に建築用材を寄進するため、良材を求めて幌内付近に入り炭層を発見した。
これを伝え聞いて、島松駅逓の紺野松五郎や札幌の早川長十郎などが幌内に入って炭塊を採り開拓使に報告した。当時、開拓使四等出仕であった榎本武揚が分析の結果、肥後高島炭と伯仲する優良炭と認め、開拓使による官営事業としての採炭計画がなされることになった。幌内炭の運搬手段として鉄道が敷設されることになった。この鉄道の沿線に岩見沢発展の基石となる村落が置かれることになり、さらに鉄道交通の要衝としての発展にも連なってゆくのである。開拓使の地質兼鉱山技師長のベンジャミン・S・ライマンは、明治丁君一一月アメリカから招かれ、明治六年から三年がかりで幌内炭田の測量を行なった。明治一〇年九月西南戦争が終り、政府は殖産興業政策推進のため、二五〇万円の起業公債を募集し、このうち一五〇万円を幌内炭鉱開発と茅沼炭鉱改良の名目で開拓使に交付することになった。かくて幌内炭鉱は官営事業として開坑されることになった。
開拓使は幌内炭鉱の石炭採掘の労働力確保のため、明治一五年七月市来知に空知集治監を開設した。当時の岩見沢の地は空知集治監に日用物資を運搬する人馬の通行路があるだけで、うっ蒼たる森林におおわれていた。
「当時江別以北は未だ一小径あるなく己を得ず江別より石狩川に沿ふて幌向川の落合幌向太に来り夫れより幌向川を遡りて幾春別川に出て堤防に沿ふ熊笹の中を辿り僅かに炭山に往復せる状況なりしを以て未だ此地に居を構へ開墾を試みるの志士なく依然熊狼の巣窟に委したるものなりとす。
然るに炭山には鉄道敷設の設計に着手して着々其歩武をすすめ又た一面には市来知に集治監設置の議確定して明治一四年より用地の伐木に着手する等岩見沢の地を来往する処のもの日に益々多きを加ふるに至りたれども尚ほまだ一定の通路なく幌向太炭山間十有余里の行程更らに雨露を凌ぐべき家屋なく旅客の困苦名状すべからざるものありしが開拓使庁に於て旅客の保護を目的として今の幾春別川向ひ東一番地なる堤防地に木造平家一棟を官設して休憩所に充て何人と雖も推も随意に休憩宿泊するの便宜を与へらる、に至れり、是れ蓋し岩見沢に於ける家屋建築の嚆矢」(『岩見沢繁昌記』)。この官設小屋は後に鉄道開通により必要がなくなり、狩野末治が借り受け、明治一六年旅人宿業をはじめた。これが岩見沢市街地居住の第一号とされている。
幌内炭礦の石炭搬出鉄道ルートの構想は幌内−小樽ルートと幌内−室蘭の二つの主張があった。前者は鉄道技師クロフォードや札幌農学校教頭クラークが、後者は開拓使顧問のケプロンや後の札幌農学校教頭のホイラーが支持していた。開拓使は一一年一〇月、札幌本府に煤田開採事務係を置いて、クロフォードに路線決定ならびに建設を一任した。かくて明治一三年一一月手宮−札幌間が開通し、次いで明治一四年一一月札幌−幌内間が開通した。フラグステーションとしての岩見沢停車場が設けられたのは同一七年八月である。
最初は一名の係員がいて貨客の取り扱いをしていたが、後に職制上の駅長が配置された。七年有余に亘る官営は営業成績不振で、二一年四月民営の北有社に貸し下げ、運輸営業の委任がなされた。その後一年半にして北海道庁は明治二二年一〇月、北海道炭礦鉄道株式会社に幌内・幾春別両礦と手宮−幌内間・幌内太−幾春別間の鉄道ならびに付属施設一切を一〇年賦三五万二三一八円で払い下げ、明治二三年一二月民有となった。開設当時の駅舎は夕張通り(現在の中央通り東踏切近く)にあった。炭礦鉄道は明治三七年本社を岩見沢に移し、事業の拡大を図るが、これにともなって岩見沢の発展が生じた。その後の鉄道の町としての発展については別に述べる。


三、士族入植による農業開拓
岩見沢への組織的・集団的農業開拓は「移住士族取扱規則」による明治一七・一八年の山口県・鳥取県を主体とする士族たちによってなされる。
士族入植以前の入植としては、明治一五年石川県羽咋郡南志雄村の原田喜助が、小樽から石狩川を溯って幌向(現在の北村の砂浜)に上陸して居を構えたのが、最初の開拓入植である。
「移住士族取扱規則」による士族移住は、明治維新の変革過程で放出された失業士族の救済を意図していた。失業士族の窮乏も明治九年の金禄公債によって士族の秩禄が最終的に処分されることで、新しい段階に直面した。明治八年の樺太・千島交換条約によって対露関係の緊張が緩和され、これにともなって屯田兵の増強が停滞化した。しかし、一方には不平士族の騒擾や貧窮士族の増加、農民一揆、自由民権運動の高揚などの社会情勢の変動の中で、北海道への自費移住のできない貧窮士族の救済施策として「移住士族取扱規則」が登場してきた。その意図するものは、社会的には貧窮士族の救済であり、政治的には不平士族の反抗懐柔であり、経済的には殖産興業遂行の生産力としての投入であった。
「北門の鎖錆」を担う者は士族移民であるとする特権意識は、帰農(土着化)過程を支える精神的支柱であった。しかし、政府にとっては北辺警備を担う役割は認めても、あくまでも補充的な存在にしかすぎなかった。
明治一五年六月政府は士族勧業資本金として一五年度から二二年度に至る八か年間に毎年五〇万円の支出を決め、そのうち一五万円ずつ計一二〇万円を貧窮士族の北海道移住請願者に貸し付けることとした。そこで七月に農商務省は三県に対し、「移住士族取扱規定」の調査立案を命じた。これに応じて各県毎に稟申し、明治一六年六月中にそれぞれの「移住士族取扱規定」を布達し、八月に「北海道三県ニ移住士族特別保護及取扱規定」が農商務省から全国に布達された。岩見沢では移住士族受け入れ態勢として、明治一六年、元町に札幌県勧業課岩見沢派出所を設け、移民に関する行政的施策と開墾および農業奨励を行なわせることにした。また、一七年一〇月に「岩見澤村」設村告示がなされ、元町畑一番地に戸長役場が設置された。
士族移住は明治一七年から一八年にかけて行なわれるが、一七年八〇戸四五九人(山口県六四戸、石川県四戸、滋賀・山形・秋田・大分の各県二戸、三重・富山・愛媛・島根の各県一戸)、一八年一九七戸一〇四四人(鳥取県一〇五戸、山口県七二戸、石川県八戸、福岡県六戸、山形県三戸、島根県二戸、富山県一戸)の計二七七戸、一五〇三人の入植である。
移住地について『北海道三県分治志通説補遺』に「移住民ノ村落ハ該川((註)幾春別川)ノ左岸地味最モ膏腴ノ処ニ在り。
幌内鉄道、室蘭鉄道其ノ中央ヲ串通シ村中停車場アリ。運輸極メテ便ナルヲ以テ精々殷富ノ大部落トナル。唯ダ其ノ平原ノ中央ニ位シ寉葦卑湿ノ地ニ囲マルルヲ以テ流水混濁ニシテ井水卜雖モ飲用二適セズ」、また移住当時は「巨樹茂生シ新墾ノ業容易ナラザル」状態であった。
明治一八年一二月の『札幌県報』は「移住士族は概して農事に慣熟せざるは勿論、間々之れが経験あるものと雖も、当道開拓事業の如きは未だ曽て夢視せぎる所なり、況や該地は喬木稠密し、伐木に開墾に其事業固より容易ならず、然も其目的着実にして規則を遵守し一家親睦能く困難に堪え、而して従来農業上の経験乏きも監督者の指揮に応じて孜々怠らず、開墾の進歩実に少なからずと推ども或は嵐弱、又は働惰にして事業の捗取らぎるものあり」として、各県別士族の営農状況を述べている。鳥取県から移住した一〇四戸について「多くは身体柔弱にして農事に慣れず喬木密林の外観に辟易せるが状体ありしが、爾来日を追うて開墾其他諸般の事物に馴れて各課業に従い巳に三、四乃至四、五反歩づつ開墾せり」。
山口県大島郡から移住の二七戸については「従来農業に慣熟し其志操着実にして能く課業に従事する」。山口県阿武郡から移住の三四戸については「総て農業に慣れざるのみならず、身体柔弱にして労働に堪えざるが如く、間々課業の捗取らぎるものあり、監督之を督責すれば或は土地の卑湿を愁い、或は樹木の密立を嘆く等、種々の苦情を唱うるものあり、是等は畢竟素志の確立せぎるより将来の利益を謀る事を知らずして眼前の瑣利に齷齪し勉強力に乏しきものというべし」と、かなり厳しく批判されているが、実際の開墾営農は筆舌に尽し難いほど悲惨で困難なものであった。一方、霜害・野鼠兎害も農業災害として存在していた。
明治一九年に士族授産は打ち切られることになるが、独立自営を志向し、「移住士族申合せ規則」が作成されている。
「我等移住者は旧に倍し一致団結互に協力しあい、毫も軋轢怠惰の挙なく、且つ生活は努めて質素を旨とし殖産の隆盛を図る事」「各自の耕地は怠らず犂鋤耕転し、農事に精励するは勿論、余力あるものは新に土地の貸下を得て、開墾に従事し倍々農業計り」と、努力目的の確認と決意の表明がなされている。
明治一九年一月に三県制度が廃止され北海道庁が設置され、これを契機に拓殖方針の転換がなされた。開拓使・三県時代の拓殖についての批判を「道路ヲ開通シテ物産消流ノ路ヲ開クコト、是レ拓地殖民ノ一大要務タリ。之ヲ是レ務メズシテ只貧窮ノ土民ヲ駆テ北海道二移住セシムルモノハ、所謂無罪ノ良民ヲシテ死地ニ陥ラシムルト同一タリ(金子堅太郎、三県巡視復命書)」「苛モ従前ノ仕法ヲ襲ヒ徒二貧民ヲ移シテ労働不規則ナル小農ノ数ヲ加フルトモ復夕益ナキノミ(井上馨・山県有朋、北海道漁業二関スル意見並二開墾及ビ運輸等ノ事)」に示されるように、貧民の移入よりも資本の移入へ重点をおく開拓政策がこれを契機に推進されることになる。
明治政府は、不平士族の反政府運動を抑圧し、危倶される内擾対策としての士族授産は一応成果をみたものとして打ち切ったが、実質的には二年間の補助で独立自営を達成することは困難であり一種の棄民政策の性格すらあった。
明治二三年四月に移住士族の勧業資金貸与金の棄権処分がなされた。道庁訓令号外で「岩見澤移住士族貸与金棄権二付開墾地其他処分方」として、「移住以来奮励耕転二従事セルヲ以テ、生計ノ本稍々立テリト雖政府保護ノ主旨二基キ益々殖産ノ業ヲ拡張シ自家ノ生計ハ勿論、一村ノ維持ヲ確率センニハ前途猶カヲ致スベキモノ尠カラス、故ニ二三年三月官貸金ヲ棄損シ以テ弁償ノ義務ヲ免レシム、其金額岩見澤移住士族ハ七六、五二一円余……」。さらに土地については「既墾地ハ丈量ヲ遂ゲ無代価下附ノ義出願スベン。未墾地ハ北海道土地払下規則二拠り更二貸下クベン」と通達している。これを契機に移住士族の急速な離散傾向が生じる。
昭和八年の『郷土誌稿本』には二七七戸の入植中二〇五戸が流出したと記録されている。『岩見沢市史』にも子孫居住は二〇数戸位と記されている。離農傾向の生じる背景には、営農地としての不適な環境と、土地に結びつく精神的紐帯としての村落共同体意識の弱さ、さらに周辺地域の開発・発展による経済環境の変動にともなう労働市場への転出や、新たなる営農地を求めての移動がなされたものと思われる。開墾定着に失敗しても開拓の先駆者であることに変りはない。

四、畑作農業から水稲農業へ
荒地を開墾したはじめの頃は畑作で、主に小麦・大麦・裸麦・黍・粟・ソバ・大豆・小豆・馬鈴薯・豌豆・蔬菜類が作られていた。後には麻や養蚕のための桑の栽培も行なわれるが、雑穀の生産が主体であった。これらの収穫物を売って生活費を得るため、三笠の市来知や夕張の炭山まで出掛けたが、思うような値段に売れず、日雇人夫などの兼業所得に依存しなければならなかった。
水害・冷害の被害もあり、苦しく貧しい農業生活の中から、生活の安定を求めての志向が水稲耕作への努力となっていった。岩見沢での稲作の起源は、明治一九年寺山正一が自宅の傍に播種し、二四株を収穫したことが「岩見沢郷土誌稿』に記されている。
水田造成のためには、水利組合を組織し、共同濯漑による方法を最善の策として主張したのは谷口竹蔵である。谷口は明治二五年以来岡山で開墾事業に従事していたが、稲作農業確立の執念から明治二九年試作を行ない、水利の確保さえあれば将来有望との確信を持つに至った。そこで彼は幾春別の水を岡山を経て西川向に導き、一千町歩の造田を行なうべく計画し、同三〇年出願し許可を受けた。組合を組織し、事業遂行のため、関係地主に水稲の将来性を説き勧誘したが理解されなかった。慨嘆した彼は自力での造田を計画し、ヒューガルボンプを購入して畑二五町歩を造田したが、揚水機は故障が多くほとんど機能しなかった。苗田九反歩の籾種の発育は順調で、雨量に頼って四町歩の植え付けを行なった。その後の勧誘努力によって一六名の同志を得て、三一年組合を組織し勧業銀行から資金を貸り入れた。しかし工事着工の段階で水害に遭い、三百余町歩の担保とすべき畑は冠水により荒廃し、小作人の逃亡、組合員の内紛が生じたが、初志貫徹のため資金調達するも、組合員の解散主張に押されて資金残額を分配して解散した。結局、彼は土地を失い多くの負債をかかえて三三年小樽へ転出するに至った。
谷口竹蔵の吾れ所信に斃るるは本懐≠ニする水稲への期待は次第に地域にメまり、やがて川向土功組合の設立をみるに至った。
明治二七年以来、川向に居住する青木利一は自己の農場に水稲試作を行ない研究を続けていたが、造田のための潅漑を行なうにあたり資金調達法として土功組合の設立を計画した。
たまたま明治三五年に北海道土功組合法が発布されるが、組合事業の大部分は水田開発を目的に設立され、本道拓殖の基礎事業として重要な使命を果すことになる。青木の計画は川向地方の潅漑によって一三〇〇町歩の造田をはかるもので、関係地主の同意を得て三六年五月着工し、三八年一二月に竣工した。これは本道土功組合の最初であり、空知穀倉地帯形成の契機をなすものであった。
岩見沢には土功組合として、北海土功組合(大正一一年六月設立)、上志文土功組合(大正一二年二月設立)、金子土功組合(大正一一年一二月設立)、大正池水利組合(大正二年四月設立)、金子水利組合(明治二九年四月設立)、志文潅漑溝組合(大正元年九月設立)、東利根別川水利組合(大正一四年設立)、高木溜池水利組合などが組織され造田面積を拡大していった。
一方、耕作法の技術開発、品種改良、稲熱病駆除法の開発、温床苗代の設置などもあって、稲作農業地帯と変貌していった。
特産品としての玉葱栽培は明治三三年の試作にはじまる。
幾春別川の堤防地が主産地で、栽培面積は大正四年三九町歩、大正一三年九〇町歩、昭和三七年一一二町歩と増加していった。

五、市街地の形成と人口の増加
明治一七・一八年の士族入植(二七七戸、一五〇三人)以来、自由民も次第に来住するようになり、村勢が活気づき、元町に市街地の形態がみられるようになってきた。
明治一七・八年には安井七兵衛、北倉文五、渡辺興蔵らが荒物・雑貨・酒類の販売や湯屋などを営んでおり、和久伊助は旅人業などをはじめている。明治二〇年になると、元町・一条通り・夕張通りは市街の形態を整え、商家も立ち並びはじめる。明治二〇年代は元町に商業の中心があり、駅の北側の鉄道沿いに商家・住宅が立ち並んでいた。
明治二二年、岩見沢外四か村役場として郡役所が設けられた。この年、岩見沢−滝川間の道路も開かれた。二三年に岩見沢−夕張間に夕張道路が開さくされ、夕張炭山の物資は岩見沢から供給されるようになった。また、岩見沢−歌志内間道絡も開かれた。二四年に入り、鉄道は、歌志内まで、二五年には室蘭線と夕張線が開通するに至って岩見沢は陸上交通の要地として物資の輸送が盛んになってきた。
また二四年には殖民地選定による幌向原野の区画割がはじめられる。二五年には岩見沢駅が現在地に移転し、新市街地を形成しはじめる。鉄道線路沿いの道路の片側は鉄道官舎が、これに対する片側は商店街をなしていた。
二八年頃の市街は一条通り(現四丁目〜一丁目)、元町、夕張通りに連なって発展した。
二九年五月二二日、一条西四丁目から発生した火災は東北に延焼し、鉄道線路を越えて元町に燃え拡がり、夕張通りも三条通りまで延焼し、市街の中心部一四〇余戸を焼失した。
その後復旧に努力し一条通りが新たに構成され、夕張通りは三谷商店、山口商店、柿本金物店を中心に発達し、商業地域の基礎を確立した。
二九年六月空知・夕張・雨竜・樺戸・上川の五郡を管轄する空知郡役所が置かれた。三〇年北海道銀行岩見沢支店と空知税務所が開設された。また、三一年には日本銀行札幌支所岩見沢派出所が開設された。三一年に郡役所が廃され、北海道庁空知支庁が置かれ、その後栗沢・幌向・由仁などの分離独立、三三年には北村が分村独立する。行政組織の改革が行なわれ、北海道町村制が施行されるや、七月に一級町村制が施行された。
三四年北海道拓殖銀行岩見沢支店、北門銀行岩見沢支店が開設された。三七年には札幌区にあった北炭の本社が駅前に置かれ、街は活気づき商店も増えていった。「北炭職員はよい給料を貰っていて購買力も旺盛で、当時の呉服店は北炭職員家族を対象に競って高級品を揃えて、商売は大いに繁昌したという」(『岩見沢市史』)。
三九年一〇月鉄道国有法の発布で北炭本社は室蘭に移転し、二万二三八八人の人口が一万九八一二人に減じ、商店街は上顧客を失って火の消えたようなさびれ方であったという。この後、市街は夕張通りを中心に神社方面に商家が建ち並び大きく発展していった。
三九年二月に町制が施行された。
四〇年に鉄道工場は水質が工業用水に適さず、また四二年には国鉄岩見沢木工場がそれぞれ苗穂に移転した。
四〇年四月空知農学校、大正一一年三月庁立岩見沢中学校、大正一三年三月庁立岩見沢高等女学校が設立され、空知の文教の中心地となる。
大正三年一一月には万字線が開通し、万字礦・美流渡礦の石炭ならびに沿線の木材が集散するようになった。
大正一四年六月五日、家屋稠密地の三条西三丁目からの出火で三六四戸が全焼した。一条から三条間、西一丁目から西五丁目間の商業街の中枢部が灰燼に帰した。
大正一五年鉄道操車場の完成により、岩見沢は本道鉄道交通の中枢として、また空知における政治・経済・文教の中心地として発展していった。かくて、昭和一八年四月市制が施行されることになった。

六、良水を求めての苦闘
明治一七年一〇月の設村以来、住民の生活に、良質な飲料水を求めての苦難の歴史を無視することはできない。
岩見沢の天然水の条件は、「岩見沢市街地二於テハ利根別川其南端ヲ流レ郁春別川其北端ヲ流ルルモ利根別川ハ極メテ小流ニシテ水源甚ダ浅ク平常殆ンド流量ナク郁春別川ハ精々流量二富メルモ溷濁不良ニシテ全然飲料二適セザルノミナラズ水面甚ダ低クシテ汲水二便ナラズ−略−井水ハ其質不良ニシテ殆ンド飲料二適スルモノナク又水量一般二僅少ナルヲ以テ日常充分ノ使用二充ツルニ足ラズ是レ地質ノ然ランムル所ニシテ殆ンド設備ノ方法ナキガ如シ従来屡々掘抜井戸ヲ試ミタルモノアルモ凡テ失敗二了リタルハ之ヲ證ルニ余アルペシ當地方ノ地質タル種々ニシテ一様ナラザルモ表土五六寸乃至一尺位ハ赤真土若クハ沖積質ニシテ心土十尺乃至十五尺ハ概ネ泥炭質土壌下層ハ悉ク泥土質ナリトス故二市街到ル所湿潤僅カニ数尺ヲ鑿テハ急ギ涌水スルモ鑿ルコト深キニ従ヒ却テ涌水ヲ見ス是レ掘抜井戸ノ失敗セル所以ナルベシ現在ノ用水タル即チ所謂上水ナルノミニシ僅カニ地下数尺ノ部分二於ケル汚水ノ天然的濾過作用ヲ為サズシテ井底二貯溜スルモノトス」(『岩見沢町上水道史』)。明治三四年に市中における七五の井戸のうち、六三についての水質調査の結果、飲料に適するもの四、煮沸して適するもの五となっている。また「年々市街地二於ケル腹胃病及下痢症ノ多数ナルハ著シキ現象ニシテ就中新来者ノ殆ンド之二羅ラザルナキハ蓋シ飲料水ノ不良ガ其一大主因タルヲ記スルニ足ルベシ」と衛生上の影響が報じられており、消防用水確保上にも問題があった。
明治一七年秋、勧業課派出所は士族入植に備えて飲料水確保のため、札幌の坂本吉三郎に井戸掘を行なわせたが、良好な涌水地は得られなかった。さらに明治一九年、札幌の中川源左衛門に請け負わせて、市来知川河口より二キロ上流を堰止め、土管を使って六キロ余りを導水した。これが開拓水道といわれているものである。
その後、明治三七年三月、北海道炭礦鉄道会社が本社を岩見沢に移したが、鉄道工場、機関庫、駅、社宅への給水のため幾春別川から揚水し濾過して使用するが、水質不良から飲料水は札幌から運搬することになった。
明治三八年七月、水汲みのため幾春別川堤防使用を出願して許可され、水汲み道路が設けられた。明治三三年七月、一級村制の施行を機に上水道創設の動向が生じ、かくて懸案の工事が三九年九月に着工され、四一年一〇月竣工した。一の沢に堰堤を築いてダムに貯水し、上水として利用するもので、給水予定戸数三〇〇〇、人口一万五〇〇〇人を想定したもので、建設費は当時の年間町予算の五倍という巨費であった。
岩見沢の水道敷設は函館に次ぐ道内二番目のもので、取水塔をもつ形式としては道内最初のものである。
生活用水確保に悩んだ住民にとって、水道敷設は生活の安定と永住の意志をもたらし、岩見沢発展の礎石を与えるものであった。その後の人口増に対応する給水増策として、桂沢ダムの建設がなされ、一応現在に至っている。
岩見沢の発展を跡づけるいくつかの主題を軸に岩見沢史を述べてきたが、最後に岩見沢の発展は水害との闘いの歴史であった点も見逃すことはできない。大水害として明治期四回、大正期三回、昭和期は三〇年代までに一二回の記録があり、ここにも先人の防止努力の闘いがあったのである。

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