農 業

93 士族入植者の家族
 明治維新にともなう失業士族の救済と授産のため、「移住士族取扱規則」 に基づいて北海道への士族入植が釧路市鳥取・木古内・岩見沢に行なわれた。岩見沢へは明治一七・一八年の二か年にわたって、二七七戸一五〇三人が入植した。この写真は明治二三年一〇月撮影で、入植後五年目の南区入植者である。入植は東区一四五戸、南区九三戸、北区三九戸であった。二三年四月に勧業資金の貸与金が棄権処分され、士族授業が打ち切られ、離農が生じて来る契機となった。


95 ヤチタモの大木
 大正末期頃の写真であるが、明治一八年七月ニー日中島武平が山口県から士族移民として入植した当時から存在していた木である。現在、高さ約四〇b、直径一・五bぐらいであるが、入植当時はこのような大木が密生して開墾にとって大きな障害となったといわれている。士族入植当時の大木の所在地番は南一一番四号であったが、現在は七条西一二丁目である。


94 幌向付近の泥炭地
 幌向川や石狩川流域には泥炭地が多く、開拓当時の土地利用障害となっていた。ホロムイスゲやミズゴケの分解不良な泥炭の堆積上に、ヨシやスゲなどが繁茂している。こうした排水性の悪い畑作不適地も、造田化することによって土地は蘇生していった。後に水稲地域に変貌するのである。


辻村農場家屋の変遷
 辻村農場は室蘭線志文駅の東方約五丁のところに面積一一〇町歩余の農地を小作経営していた。太平洋戦争後の農地解放により自作農が創設された。創立場主辻村直四郎は神奈川県足柄上郡吉田島村の出身で、北海道開拓の大志を抱いて渡道するが、その経緯は娘の辻村もと子の『馬追原野』の作品にうかがえる。アメリカに留学し、農業を学んで来た先覚的知識人でもあった。辻村農場の家屋の変遷は、北海道入植農民のたどった一般的な形態でもある。


96 明治二六年人植時の家屋


97 明治三四年当時の母屋と作業小屋


98 大正二年六月の農場事務所新築上棟式


99 昭和三年の農場事務所


100 桑畑
 大正九年、士族移民二世の中嶋捨男の経営していた桑畑で約一町歩あった。当時は本州からの在来産業をそのまま移入しており、全道的に養蚕が盛んに行なわれていた。中嶋捨男は、明治四三年空知農学校校友会・岩見沢町農会聯合農産品評会で繭二等賞、大正元年拓殖博覧会で繭銅賞、大正四年空知外三郡物産共進会・北海道農産共進会・大日本蚕絲会北海道支会第一回品評会で受賞の栄与を得ている。


101 志文潅漑溝取入口竣工記念
 大正二年八月、幌向川の自然流下水を利用し、上志文・下志文・志文地域に水田を造成するために設けられた潅漑溝導水門竣工記念の写真である。
明治四一年二月、部落の有志長谷川宇三郎・宮本銀松・辻村真四郎などが相謀って幌向川の導水による造田を計画し、大正元年九月、志文潅漑溝組合を設立し工事に着手した。取水口は上志文の館田宅地先に設け、志文落口までの溝路六八三四b、濯漑面積一六六町七五で、工費二万六五〇〇円であった。


102 中幌向地域の造田記念写真
昭和七年四月の撮影である。


103 金子農場自作農創設之碑除幕式
 元貴族院議員金子元三郎が農地解放によって自作農育成を行なったことに対し、その徳を敬慕したたえるために、解放一〇周年に当る昭和ニー年七月に金子神社の境内に記念碑を建立した。その碑面に「昭和一〇年時勢ノ進運卜国策ノ方途二鑑ミ敢テ自作農創設ノ功ナルヲ決意セラレ昭和一二年二重ル三ケ年二亘り周到ナル計画ノ下仝農場田畑六一七町開放ノ完遂ヲ見タリ」とあり、一四五名の自作農が創設された。


104 水害凶作雁災者救済利根別川改修工事の状況
 昭和七年九月の大水害によって、農作物は大被害を受けた。その救済のため利根別川改修工事に就労させて賃金を与えることで羅災者対策を行なった。写真は昭和八年二月二日
撮影のもので、写真裏面に「約五二〇名就労、零下二〇度の厳寒に汗を紋る」と記されている。


105 川向土功組合功労者の碑除幕式
 明治二七年以来、青木利一は水稲試作を行ない、水田開発を計画していた。川向の地は水利に乏しく、幾春別川に水源を求め、これを潅漑水として利用するため、土功組合を作って工事を完成させた。その先人の労苦を賛えて、昭和六年六月創立三〇年を記念して功労碑を建立した。碑面の功労者芳名は、青木利一・相原貞次・平井達蔵・蓮見啓之進・河原音大郎・仁平豊次・山口由太郎・朝山和一郎・大倉喜三郎・藤田覚路・村津寛である。


106 川向土功組合記念館
 川向地域の造田のため、幾春別川の水を利用して潅漑することを計画し、明治三五年川向土功組合が設立された。この組合は本道土功組合の先駆をなすものであった。


107・108・109 川向土功組合の工事
 この工事は、濯漑溝の起点三笠の岡山に堰止を築設し、その上流に水害に備えて放水路を穿ち、また堰止の上流には導水門を設け、ここから潅漑溝路を掘さくし、約四キロ下流の二二〇〇町歩の水田に潅漑するもので、三六年五月工事着手し、三八年一二月に竣工、工費六万七千余円であった。
  

110 火力穀物乾燥機導入テスト風景
 成熟した穀物の乾燥は天日乾像が普通であるが、新しい技術として火力による乾燥機が開発され、岩見沢地方では辻村農像で最む早く導入テストを試みた


111 行幸記念大客土事業完成
 昭和一一年九・一〇月、天皇は陸軍大演習を御統監の前後、本道各地を巡幸された。一〇月一日大演習前の地方行幸を終え、札幌の大本営に入る前に岩見沢駅に臨時停車し、稲作状況を御覧になった。これを記念して、客土事業による増産をもって天覧に答えようとするものであった。


112 水田除草ならびに殺虫剤散布作業
 水田の除草のため、除草機を押して歩く作業も今では見られなくなった。当時の稲作農業では、耕起・代掻き・播種・田植・収穫の刈入れは、すべて手労働で、ある程度機械化されていたのは脱穀・調整部門のみであった。

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