岩見沢の小学校

121・122 上志文尋常小学校校舎
 明治三一年四月、部落民が相謀って上志文四号六番地に私立教育所を創設し子弟の教育を行なった。三四年に岩見沢第四簡易教育所と改め、さらに三九年三月に上志文尋常小学校と改称した。大正二年九月現在地に新築移転した。No.121は昭和三年頃のもので、生徒数一五八名である。No.122は改築された昭和一〇年頃のものである。
  

123 岩見沢東尋常小学校校舎
 明治一九年九月、部落民が相謀って東一番地二二号に私塾人徳学舎を創設、三〇余名の児童を収容し授業を開始した。同二三年六月、岩見沢尋常高等小学校の分校となり、翌二四年入植士族共有の倉庫一戸を増築改修して教場に当てた。三三年六月に現在地に移転し、部落有倉庫を校舎に借用し、岩見沢東尋常小学校と改称した。四一年に校舎を新築した。
この写真は昭和三年頃のもので当時の児童数は一六四名であった。


124・125 志文尋常小学校
 明治二七年六月、寺子屋式教育場が創設されたが、同二九年五月、志文二〇号に岩見沢尋常小学校志文分教場として校舎を新設し授業を開始した。同三六年一一月に現在地に校舎を新築し、志文尋常小学校と称することになった。三九年三月高等科を併置する。写真は明治三七年四月三〇日移転開校式当日のものと思われる。荒野の開墾地に建築された校舎のようすが木の切り株からうかがえる。
 

126 岩見沢南尋常小学校校舎
 明治三九年四月に設立・認可された。岩見沢町会議事堂を教室に児童を収容し授業を開始した。開校当時の在籍児童三九名、職員は校長以下二名であった。同年一一月に現在地に校舎の落成をみた。その後児童数の増加にともなって、四〇年・四一年に増築がなされた。この写真は昭和三年頃のものである。


127 岩見沢南小学校の運動会
 昭和二年の写真である。当時、南小学校にはグラウンドがなかったので、女学校のグラウンドを借りて運動会を行なっていた。休憩の一時のスナップ写真である。


128 岩見沢南尋常小学校同窓会女子部
 大正一一年八月一五日の同窓会の記念写真である。


129・130・131 岩見沢南尋常小学校入学生の三年間の軌跡
 No.129は昭和元年、小学校入学時の記念写真。No.130は二年生に進級時の記念写真。No.131は三年生に進級時の記念写真。
 昭和の年代から男子の服装は洋服であるが、女子は洋服と和服が半々で次第に洋服に移行しつつあるのがわかる。また、一・二年時は男女共学が三年時から別学となっている。
  

132 西川向尋常小学校校舎
 明治三二年西村半兵衛が西村義塾を創立し、二〇余名の児童を収容し教育を行なっていた。同三三年六月、岩見沢第三簡易教育所と称し、三五年に現在地に校舎を新築移転した。同四二年二月岩見沢西尋常小学校西川向分教場と改称し、大正二年四月に二学級編成の岩見沢西川向尋常小学校として設立認可された。この写真は昭和三年頃の校舎である。


133 岩見沢中央尋常小学校校舎
 明治四〇年四月、岩見沢第二尋常小学校より第一学年から第四学年までの児童二三七名を分割し、岩見沢町会議事堂を仮教室に当て二部授業を開始した。同年九月岩見沢尋常高等小学校の二教室を仮教室に当て移転するが、翌四一年五月現在地に新築移転した。この写真は昭和三年頃のものである。


134 岩見沢中央尋常小学校の朝会
 全校生徒の集会風景である。体操・訓話・連絡ならびに諸注意が内容であるが、戦局の進展とともに訓話に軍事色・戦時色を帯びるようになっていった。「勤労鍛錬」は校訓で
ある。


135 幌向尋常高等小学校
 幌向の私塾が、明治三一年七月岩見沢尋常高等小学校の幌向分校となった。江別村より倉庫を購入して二四坪の校舎を建築した。同三七年四月、岩見沢幌向尋常小学校として設立認可され、三八年五月には農業補習科を併置した。三九年四月高等科を併置、校名を岩見沢幌向小学校と改めた。この写真は昭和三年頃のものである。


136 幌向尋常高等小学校卒業生(大正時代)


137 岩見沢西尋常小学校校舎
 明治三一年金子農場内に一教室の小校舎を創立し、岩見沢尋常小学校西分校と称して授業を開始した。同三七車二月に岩見沢西尋常小学校と改称、四一年一一月現在地に校舎を新築し移転した。写真は昭和三年頃のものである。


138 毛陽尋常小学校校舎
 明治三五年校舎を設け、岩見沢第五簡易教育所と称した。同四〇年九月、増築を行ない、更に四二年九月、上志文尋常小学校ミルトマップ分教場と称した。大正四年四月に毛陽尋常小学校として設立認可され現在に至っている。この写真は昭和三年頃のものである。


139 毛陽尋常小学校卒業生(大正年代)


140 岩見沢尋常小学校校舎
 明治一九年一二月に設立された私塾螢雪学舎の後を継ぎ、人徳学舎をあわせて公立の岩見沢尋常小学校が明治二三年七月に設置された。初期には開拓学校の様相を持ち、子守教育が同三七年六月から行なわれ、六一名が入学した。その教育効果は「街頭にさまよい、俗歌に暇を消し楽しからざる手段より子供を威圧し、或は悪口を能事とせしものなきにあらざりしが、彼等就学以来頓に気風一変し、日頃少なからぬ快昧を感じぬ」(『空知教育』二号 明治三八年)。


141 岩見沢尋常高等小学校第一一回卒業生(明治四一年)


142 岩見沢国民学校
 岩見沢小学校は戦時中国策によって、国民学校と改称された。昭和一六年頃の校舎。


143・144 戦時下の学校生活
銃後の子供たちには心身の鍛練がなされた。
男子は剣道、女子には薙刀が正課とされた。
 

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