災 害

175 大正二年の凶作
 大正二年は全道的に低温で、降霜も例年より早く、また八月には暴風雨の被害も生じ大凶作の年となった。農民の惨状を市史では「この大凶作に遭遇してたちまち糊口に窮し衣服・什器・家畜の類まで糧食に代えことに移住後日のまだ浅いものは茅屋で雨露をしのぎ山野をかけて楢の実その他を拾集して、わずかに餞餓を凌ぐという惨状であった」と述べている。岩見沢の冷害記録として明治二五年、大正二年、昭和六・七・九・二〇・三一年などが知られている。


昭和七年九月の水害
176 宮下町の浸水状況
 九月六日から増水してきた利根別川は、夜半には幾春別の氾濫と合流し、全町浸水により泥水と化した。夕張通り利根別橋から宮下町を望んだもので、十一月午后二時撮影。撮影時には、約二七a減水していたが、それでも路上には約三〇aの冠水状態である。


177 利根別川の氾濫
 消防望楼から利根別川の氾濫を望む。一一日午前八時半撮影。撮影時には全町の浸水量は約一七a減水し、路上には平均約四〇aの冠水である。


178 岡山付近の状況
 幾春別川が氾濫し、利根別川に合流せんとする状況のものである。


179 市街一条通りの浸水状況
 二日午前三時頃を最高浸水として漸次減水し、約二〇a程度減水した当時の景である。市街地の中で最も高地の地勢の箇所である。二日午前八時撮影。


180 農耕地への浸水
 室蘭線上から上幌向方面の農耕地を望む。六日の利根別川の氾濫により、南区方面の農耕地に浸水し、約一bあまりの冠水が一〇日にわたって停滞し、農作物は全滅の被害を受けた。七日午前一〇時撮影。


181 利根別川の大増水(農学校通り)
 利根別川・幾春別川の氾濫による濁流は、約一b余りの増水をもたらした。六日午后一時の撮影。


182 東岡山公園の利根別川の氾濫
 一一日に至りこの付近は、さらに一b余りの増水があった。六日正午撮影。


183 岡山橋上から幾春別川の源流を望む
 五日の夜半以来の豪雨が止まず、ついに各所で堤防が決壊しつつあり、写真の場所も今や危険が最高潮に達したる時である。六日午后一時撮影。


184 中央通りの冠水の中を往来する人々


185 泥海の中を下校する生徒
 冠水状態の中を鉄道線路沿いに下校する生徒たち。


186・187・188 岩見沢西高等学校の火災
 昭和三四年二月一四日午前一一時半頃、集合煙筒の欠陥から引火して火災となった。当時全校生徒は体育館で卒業生の送別会を行なっていた。岩見沢の火災としては明治二九年五月、大正一四年六月市街の大半を焼失する大火に遭い、また中学校を前身とする岩見沢東高校も昭和二四年九月に焼失している。

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