軍事・戦時生活
189 岩見沢から出征した日露戦争の戦死者
 明治三七・三八年の日露戦争に岩見沢から出征した軍人は第七師団に編入されて、第三軍の乃木希典司令官の麾下に入った。難攻不落と称された旅順口攻撃、奉天付近の大決戦など転戦し、輝かしい戦果をあげたが、また多くの戦死者も出た。岩見沢出身の戦没者は一八柱である。この写真は戦没者の武勲をたたえて神社に奉納されたものである。


190 岩見沢在郷軍人団
 明治四〇年帝国在郷軍人会の分会として、岩見沢在郷軍人団の発会式が行なわれた。大正四年の組織では、会員は将校五名、下士官一八名、兵卒四三六名、特別会員一八名で町役場を仮事務所としていた。この写真は撮影年月不詳であるが、明治末期頃のものと思われる。場所は岩見沢神社境内である。


191・192 学生の軍事教練
 大正一四年四月に「陸軍現役将校学校配属令」が公布され、以来各中等学校では教練が必須科目となり、年間行事の中にも軍事的色彩が大きく組み込まれるようになってきた。満州事変・上海事変の勃発した頃から軍事教練はますます重視されてきた。昭和一一年一〇月天皇を迎えての陸軍特別大演習は、軍事色強化の一つの契機ともなった。太平洋戦争下において学校教育の軍事色はピークに達した。写真は空知農学校生徒の幕営と、査閲の情況


193 日華事変戦没者の英霊市葬
 昭和一二年七月、日華事変の勃発以来、応召者も次第に多くなるが、同時に戦死者も増えていった。戦局の激化とともに駅頭へ英霊を迎えに行くことも多くなっていった。この写真は三柱の英霊の市葬風景である。陸軍伍長阿部桂助、昭和一二年七月二七日中国河南省通州旧南門で戦死。陸軍伍長中野三寿、昭和一三年中国安微省で戦死。陸軍上等兵水野吉次、昭和一三年三月三〇日中国山西・河南両省境東陽関で戦死。


194 大日本国防婦人会第三町内会
 昭和一二年九月、戦時下銃後における婦人活動の全国的組織として結成された。岩見沢町には岩見沢分会が設けられ、さらに各町内会毎に班編成を行なった。毎月一五日には戦勝を祈願して正装の割烹着姿で神社参拝を行なった。昭和一六年四月には新たに愛国婦人会が組織され、多くは国防婦人会と愛国婦人会の両方の会員であった。これが昭和一七年二月に一本化して大日本婦人会となった。


195 戦勝祈願神社参拝
 毎月一五日は大詔奉戴日に制定され、戦勝祈願のための神社参拝が奨励された。この写真は昭和一六年岩見沢国民学校生徒の岩見沢神社参拝の風景である。学校、婦人会、在郷軍人会、職域団体などが団体で神社参拝を行ない、文永・弘安の役になぞらえて神風を期待する願いさえ生じていた。


196 軍馬鍛錬
 昭和一四年軍馬資源保護法が発布され、一五年七月施行許可を受け、岩見沢競馬場は鍛錬馬場に指定された。競馬場も戦局の進展にともなって様相を変えていった。戦時下にあってはもっばら鍛錬馬競走を行なっていたが、一九年に至って競馬は停止された。この写真は鍛錬馬の勢揃しての記念写真である。


197 出征見送り
 昭和一七年秋、広瀬達蔵氏は、北海道大学医学部を三年半で繰上げ卒業して徴兵に応召した。樺太・シスカと兵役に従事し、後東京軍医学校へ入り軍医となった。戦争も末期に近づいてきており、見送る人も老人、特に女性の多いのが目立つ。昭和一七年は日本軍のマニラ・シンガポールの占領といった戦勝の一方で、東京の空襲、ミッドウェー沖海戦の敗北など敗退の兆の見えはじめる年でもあった。


戦時下の女学校生活の一面

 三枚の写真は昭和一五年のものである。軍事講話を通じて戦意高揚と決意を強固にし、銃後の守りを荷う女性像を形成していった。薙刀訓練は正規の教育課程として取り上げられ、心身の鍛錬の最善の手段として奨励された。敵の空襲に備えての防空訓練の中でも、避難訓練と防火訓練が主なるもので、戦時色を帯びた風俗や服装に注目してほしい。


198 防火訓練


199 軍事講話


200 薙刀訓練


201 女学生の援農
 昭和二〇年戟局が悪化するや、女学校の校舎を兵舎として駐屯部隊に提供し、六月から三・四年生は援農に動員された。クラス毎に隊を組んで組担任が引率し、近くは東川向・西川向から、遠くは秩父別まで出向き、小学校やお寺に合宿した。生活日課は午前五時半起床、朝礼および体操、午前六時半朝食をすませ午前七時半合宿所出発、午前九時から作業開始、午后五時合宿所に帰着、六時夕食、七時から九時までが自習の生活であった。


202 勤労奉仕 T
 昭和一六年三月、文部次官の「戦時非常時下に於ける各種の国策に即応し、銃後青少年学徒として挺身奉行すべき」その通牒に基づいて、空知農学校は従来の学友会を解散し、報国会を新たに発足させた。「聖旨ヲ奉戴教学ノ本義二則り、全校一丸師弟相携へテ負荷ノ大任ヲ全ウスベク心身ノ錬成ヲ以テ目的トス」の勤労即教育の精神を体して、学生たちは各種の勤労に従事した。写真は空知農学生の百錬溝掘さく工事。


203・204 勤労奉仕U
岩見沢国民学校生徒の収穫作業


205 保安隊岩見沢駐屯部隊の市中行進


206 保安隊岩見沢駐屯部隊関係風景


207 保安隊岩見沢駐屯部隊開庁式
 昭和二五年七月朝鮮戦争の勃発を契機に、国内の治安維持と確保の体制としてマッカーサー書簡に基づき、警察予備隊が設置された。ついで二七年一〇月保安庁が設置され、警察予備隊は保安隊として再出発することになった。二八年二月に保安隊岩見沢駐屯部隊が置かれることになった。二九年七月自衛隊法の発足によって、現在は自衛隊岩見沢駐屯部隊となっている。保安隊時代は孫別であったが、現在は日の出町に駐屯している。

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