電脳都市 いわみざわ

 

岩見澤神社

 


岩見沢神社入口付近

入っていくと、たくさんの燈が立っています。
大正や昭和の文字が見えます。

岩見沢神社

 

 

神社前から入り口(参道)方面を振り返ると

 

創祠(?)百年

碑文

明治十七・十八年山口・鳥取外十県の氏族二百七十七戸千五百三人が入植岩見沢開拓の鍬をふるい、翌十九年元町畠一番地に小祠を建立初の秋祭りを斎行したと伝う。爾来先草氏子祭り承け継ぎ大火のため明治三十年現在に遷り本年創祠(?)百年を迎う。ここに奉賛会を結成し氏子の総力を挙げ記念事業の社殿・社務所の改築をすすめ今般次の世代に引き継ぐ昭和大造営が完工せしことを慶びこの碑を建つ。

昭和六十一年八月五日

 奉祝百年大祭斎行の日

岩見沢神社創祠百年記念委員会
宮司 植田 昇吉



開拓記念碑

 

 

開村記念碑

 市指定文化財第二号 昭和五十五年四月 岩見澤神社社務所記
建立の所謂 石黒忠三氏、岩見澤開村発展の有様の撰文を岡千に依頼す。
        嗣子長平氏が後人に伝えんため、この碑を建てる。
建立年月日 明治三十八年一月一日
岩見澤記  仙台処士  岡千? 撰文  正二位 男爵 永山武四郎 題額

岩見澤記訳文
岩見澤は浴沢の転称なり。開拓史幌内炭山を開く。十数理の間奔蒼深林人煙を四絶す。明治十一年道路を創めて造る。執役の丁卒廬舎を結び澗流に就きて浴す。
よって浴沢と称す。畠一番地に今なお遺跡を存せり。十五年運炭鉄道この地に成り停車場をつくる。浴の訓由阿美と岩見と相近き故に岩見澤と曰う。十七年より十九年に至り官は鳥取、山口諸県の氏族二百七十七戸を移す。既にして移民四集し、林沢一変して田畝となる。戸長を置きて村務を理む。東南は幌内炭山、夕張川と界し、西北は千歳石狩二川に界す。広?七八里の一大村をなす。後に栗沢幌向北村数村を分置せり。二十一年官は炭礦鉄道の諸業を挙げて村田堤に付し、尋いて炭礦鉄道会社に属せしむ。二十四年停車場を南六番地に移す。二十五年室蘭空知太間の軌道接続す。地要衝に当るを以て街?縦横店舗?列生色日に曜なり。二十九年市街羅災す。この都市郡衛を新らしく置き空知、夕張、樺戸、雨竜、上川の五郡を管す。明くる年郡衛を改めて支庁と称す。郷祠を興し円山神社を分祀す。三十一年洪水ありて官貧窮を賑わすに道路を修め、溝梁を?わしむ。民以て艱となさず。三十三年自治制を敷く。ここに至って戸数二千三百戸、民口一萬一千口、耕地七千余町歩、??の原野二十年を出ずしてこの殷賑を致す。その地の要衝にして汽車四通し制度宜しきを得たるに頼ると雖も、抑移住諸人の励精服業
の致すところなり。後に生を斯の地に営む者はそのよる所を知らずして可ならんや。邑族石黒忠三は余とその雲煙閣に?して即景の和歌を示し、且この本を記せんことを請う。乃ち歌意を以て撰す。銘に曰く。

岩見の澤。役夫の浴するところ。汽車一たび開け 軌道四達す。曽ていくばくの時ぞ。鬱として盛色をなし。巖として高く?え。
雨煙閣をなす。殷殷たり日夕。誰か知るその昔を。
明治三十六年三月   勅撰議員綿鶏祇候正四位勲三等 金井友恭 書

岩見澤開村碑陰に書す

岩見澤開村碑成り石黒長平余に謁して曰く明治二十五年父忠三初めて岩見澤に来たるや。戸口日に減じ田圃荒廃し井邑?條たり忠三独り謂えらく。この地空知の中枢たり。後来必らず股賑を至さんと。乃ち資を棄てて荒圃を購い、廃宅を買いて農を移し、商の経営を勧めて頗る力む。人その愚を笑えり。いまだ幾ばくもならざるに。鉄道遠く通じ、農商多く集り。遂に大邑を成すや。人始めてその先見に服す。今碑を建て、その艱難を後人に?む。余に請うに、一宮を碑陰に書せんことを。余既にその業を偉とし、又その志を嘉とす。詩に謂う。我公田に雨し遂に我が私に及ぶ、と。石黒氏に忠三有り。北越の世農旗野氏の出にして石黒氏を嗣ぐ。名は?徳和歌を善くす。
時に明治乙巳一月旅順口開城の日之を建つ。

長郷石黒長平謹書
水崎礦川之を刻す


水神・龍神


 

    


明治神宮御造営奉仕記念碑


 


社務所と駐車場

inserted by FC2 system