石狩川
 石狩川のアイヌ時代の名は、イッカラ(Ishkar アクセントは語頭のIにあった)で、これほどの大河になると、ベッ(pet 河)をつけて呼ばない。
 この名は、また、石狩川沿岸の土地の名としても使われ、そこに住んでいた人々をイッカルンクル、或いはゆっくり発音して、イッカラ・ウン・クルと呼んだ。ishkarun-kur「石狩・の・人」の意味である(語尾のrは、すぐ前の母音を響かせる事がおおい)。
 有名な川名であるが、意味は分からなくなっている。関東地方の利根川の意味が分からなくなっているのとよく似ている。後世、なんとか解釈をつけようとして、いろいろな説が出されたが、どの説もにわかに信じがたい。

「松浦武四郎」(幕末) 「廻浦日記」アイヌの古老に聞いたが判らない、とある(これが一番正直な意見である)。

「国名についての書付」 イとは、イシャムにて無為という儀。シカリとは塞(ふさが)るという事にて、此川筋屈曲して、先が見えざる故相名づけ候由、土人等申候。

「永田地名解」
一、イシカラ ペッ 回流川の意。石狩川口の辺、川脈最も屈曲回流して、川口塞るが如し。こはパニウングル(中川人) の説なり。「語訳は「塞がる」、意訳として「回流」」
二、ペニウングル(上川人)いう。イッ カラ ペッなり。イッは美しく、カラは作る。美しく作りたる川の意。太古、コタン カラ カムイ(国作神)親指にて大地を画し、此川を作り給いたり、故に名づくと。
三、和人某伝。イッ カラ ペッは「鳥尾にて?羽を作る処」の意なりと。老夷笑って曰く、此説非なり。石狩アイヌ鳥尾をオイシと称し、イシと呼ばず。

 最近は「回流川」説がよくかかれるが、それはI-shikari(それ・廻る)とでも読んだのだろうが、アイヌ社会で呼ばれたishkarとも音が違う。有名な石狩川の原名とその意味は、まだ霧の中に包まれた姿である。
(山田秀三著「アイヌ語地名の研究」より)

利根別川

岩見沢の市街を曲流している、幌向川支流の名(昔は幾春別川の支流)。ト・ネ・ペッ(To-ne-pet 沼の・ようである・川)だったのだろうか。なお、音からいえば、あるいは、トンニ・ペッ(Tunni-pet 柏の木・川)であったかも知れない。
(山田秀三著「アイヌ語地名の研究」より )

幌向川
 ポロ・モイ(Poro-moi)。モイは普通の海岸の「入江」のことであるが、大きな川の「ゆるく曲がった、流れのゆったりしたところ」もこの名で呼ぶ(石狩川下流、河口に近い石狩町のそばをホロカ・モイ「後もどりするモイ」と呼ぶ)。石狩川中流のこんな場所が Poro-moi(大きい・モイ)とよばれ、またそこに注ぐ川の名として残ったのであった。
 なお、東北地方の方言のくせのためか、モイはよくムイの形で残っている。その昔に当て字されて幌向(ほろむい)になったのであろう。
 石狩川は、江別から少しさかのぼったところで大きく屈曲していた(今は直線に改修)。今は沼形になったその屈曲部がポロ・モイ(大・緩流の処)で、今の名は幌向。そこに流れ込んでいた川なので幌向川なのであったが、今の川口は新夕張川の方に切り替えられている。
(山田秀三著「アイヌ語地名の研究」より )


幾春別川
 岩見沢市街の北を流れる幾春別川は、今は放水路で石狩川に直結しているが、昔からの流れは、北から幌向川に注いでいた。
「永田地名解」
 イクシュンベッ即ちイ・クシ・ウン・ペッ(それ・の彼方・にある・川)から出たもので、昔付近のポロモイに土人が住んでいたとき、山の彼方の川という意味で名付けられたものである。
(山田秀三著「アイヌ語地名の研究」より )

市来知川
幾春別川の南支流。少し難しい川名である。
「永田地名解」イチキルシ(I chikir-ushi 熊蹄多き処)
 そのまま訳すれば、I-chikir-ush-i それの・足・多い・処)である。
 i-(それ)は、恐ろしいものなどを直接に名を云わないで指していう詞。この場合に、「熊」だと書かれていたのは、アイヌの伝承を聞かれたのだろう。チキリ(chikir)は「足」だが、足跡ぐらいの意味に使われたのだろうか?
(山田秀三著「アイヌ語地名の研究」より )

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